[補講 by まんどぅーか]

受動態


  1. 受動態の扱い方
     サンスクリットの動詞には、受身の意味を表す形として、受動態という形があります。 名前としては、いままでやった「能動態」「反射態」と同じく「態」でおわっています。 とするといままで説明した現在、アオリスト、完了では、 能動態と反射態だけでなく、 受動態もあわせて説明すべきだったのかもしれません。 「なんだよ、それなら最初から一緒に変化表を出してくれればよかったじゃないか。 小出しにしやがって」と思う人もいるかもしれません。
     たしかに受動態は、今までやった「動作が他人に及ぶ」能動態、「自分のための動作の」反射態と並んで、「他人の動作が自分に及ぶ」ことを表します。 そういう点では、 能動態、反射態、受動態という3本柱があるわけです。
     しかし形の上では、サンスクリットの受動態は、 もとの動詞から派生した新しい動詞であるかのように変化します。 この動詞はもとの動詞語根にある操作を加えてできる動詞で、 一応いままで説明したすべての型をもっているのですが、 反射態にしか変化しないという、一風変わった動詞です。
     そこで、語形変化を勉強するときは、 そのような(一応同じ語根から派生しているとはいえ)別の動詞として説明するのがわかりやすいので、 ほとんどの文法書はそういう立場をとっています。 本編も例外ではありません。
     この補講でも、そのようなやり方で説明することにします。

  2. 現在語幹
     受動態の作り方は、動詞語根にをつけます。 をつけるということは、第4類動詞の現在語幹の作り方と同じだということになります。 現在語幹の類別に例をあげましょう。
    動詞現在語幹受動態語幹
    第1類(勝つ)
    第2類(憎む)/
    第3類(供える)/
    第4類(成功する)
    第5類(しぼる)/
    第6類(勝つ)
    第7類(裂く)/
    第8類(拡げる)/
    第9類(食う)/
    第10類(考える)
     原則として単に動詞語根にをつけるだけです。 第4類動詞の場合、ふつうの現在語幹とまったく同じになってしまいます。 ただし、第10類動詞だけは、を抜いてからをつけていることに注意してください。
     いくつか、単にがついているだけでなく細かな変化をしている場合があります。 たとえばで終わる語根の場合、それらの母音がに変わります。 このような細則は本編のセクション191にいろいろ書いてあるので見てください。
     あとは反射態語尾をつけるだけです。 具体的には変化表を見てください。 母音で始まる語尾をつけるときは、末尾のを抜かしてからつけるのに注意してください。 もちろんそれはふつうの現在反射態と同じ注意ですが。
     ふつうの動詞の現在語幹から、現在、過去、願望、命令、現在分詞ができるように、 受動態現在語幹からも現在、過去、願望、命令、現在分詞ができます。 どれもふつうに気軽に出てきます。 命令だって「この本はあなたによって読まれるべし」みたいな感じで使います。 もちろんそのときは「読まれる」は(「本は」に対応するわけですから)単数3人称になります。 こういったことはこのページの下の「受動態的発想」を見てください。

  3. その他の語幹
     現在語幹以外、 つまりアオリスト、完了、未来(条件法を含む)では、反射態が即受動態となります。 その唯一の例外がアオリストの3人称単数形です。 頭にをつける点は例によって同じですが、 語根にをつけるだけというシンプルな形です。 もっともこのとき母音がヴリッディになるなどの変化をします。 詳しくはこちらを見てください。

  4. 受動態的発想
     サンスクリットは受動態がたいへん多く出てきます。 (馬によって水が飲まれる)みたいに、 「なんでわざわざ受動態を使うんだろう。 (馬が水を飲む) と言えばすむじゃないか」という受動態表現がいっぱいあります。 そういえば今までいっぱい出てきた過去分詞だって、 正確には「過去受動分詞」であって、 (このように私によって聞かれた)ですから受動態というわけです。 また「〜されるべき」という意味を持つ分詞(動詞的形容詞、未来受動分詞)もひんぱんに使われます。 世界の多くの言語は、一応受動態の形はあっても、 行為者がわからないなどよほどの場合をのぞけば使われず、 できるだけ能動態表現をする、というのが主流だと思います (ウルドゥー語/ヒンディー語だってそうです)が、 サンスクリットはこの点ではまったく例外的です。
     あげくの果てには、 (人々によって町に行かれる) などというすごいものも出てきます。 「行く」は自動詞ですから英語だったらそもそも文法的に受身になりませんが、 こんなのも受身になってしまいます。
     日本語はまだ受動態表現に対して寛容的なほうで、 多用しようと思えば多用できてしまいますが、 それでもサンスクリットの受動文をそのまま直訳すると違和感が大きい場合が多々あります。 こんなときは「馬が水を飲む」「私はこう聞いた」「人々は町に行く」のように能動態に直して訳すべきです。
     受動文では動作の主体(英語の「by〜」、「〜によって」という部分)は具格で表されます。 意味的には主語になりますが形式的には主語ではありませんから、 動詞や分詞の性・数・人称などの一致の対象にはなりません。 動詞や分詞の性・数・人称は、あくまで形式的な主語と一致します。 (私によって水が飲まれる)では、 意味上の主語は「私」ですが形式的には(水)のほうが主語なので、 動詞は3人称単数形になっています。 上の「このように私によって聞かれた」「人々によって町に行かれる」のように、 形式的な主語が存在しないことも珍しくなく、 この場合の主語は「中性・3人称・単数」扱いになります。 「このように私によって聞かれた」は、 英語でいえば It is heard by me like this. ですから、 中性の it が主語になっていると思えば理解しやすいでしょう。
     動詞によっては、 (豆が煮られる→豆が煮える)のように、 形は受動態だが実際の意味は自動詞的というものもあります。 そもそも自動詞は他動詞の受身という性質をもつものが多く、 ある言語で受身になるものが他の言語ではただの自動詞になるということもあります。 サンスクリットにもそういうケースが多いということです。 こういうとき、辞書では受動態の形をあげて意味を記していたりするので、 そういうときは受身に訳さずその意味で訳すようにします。 だから「が入ってるから受身に違いない」と見た目だけで判断するのではなく、 ちゃんと辞書をひいてみるということです。

  5. 祈願法
     もともとアオリスト組織に属する表現なので、 ほとんどの文法書ではアオリストのところに書いてありますが、 アオリストと違って加音があるわけでもないうえ、 しかも能動態の形が受動態と非常に関連が深く、 Bucknellの『Sanskrit Manual』では、祈願法の形が特殊な場合は、受動態の形への注として書いてあるほどです。 そこでこの補講でもここで説明します。
     語尾は変化表の通りです。 能動態の形は、受動態からを除いたものに、 この変化表で赤で書いた語尾をつけていくということになります。 この語尾は、願望法の語尾の間にを入れたものというふうに考えられますが、 願望法はもちろん現在語幹から作るわけなので、 「どうも願望法っぽいのに、語幹が現在語幹じゃなく、受動態の語幹っぽいぞ」というときには祈願法を疑うといいでしょう。
     反射態のほうも同様に、願望法の語尾にが入ったものと考えられますが、 こちらは語幹の母音が標準階(グナ)になるので、受動態とはかなり様相が違います。
     いずれにせよ祈願法は、めったに出てくる形ではないので、 「願望法らしいのに語幹が違う」というときに確かめるようにするといいでしょう。