[仏教サンスクリット]

はじめに


  1. 仏教サンスクリットとは?
     仏典に用いられているサンスクリットは、 俗語などの要素がいろいろまじっており、 標準のサンスクリットにはないさまざまな特徴をもっています。 特に詩句(偈)の部分にそれがはなはだしくなっています。 このような、仏典に用いられている、俗語のまじったサンスクリットのことを、 「仏教混淆サンスクリット」(Biddhist Hybrid Sanskrit。BHS)と呼んでいます。 当サイトでは「混淆」を省略して「仏教サンスクリット」「仏教梵語」などと呼ぶことにします。
     仏典はブッダの死後数百年間は文字として記されることはなく、 記憶によって伝承されていきました。 その言語はサンスクリットではなく、 ブッダの活躍した東インドの当時の俗語であると思われます。 インド各地に布教されるにしたがって、 その土地土地の言語に翻訳されていきました。 パーリ語はおそらく西インドの言葉で、 西インドに布教されたときにパーリ語に翻訳されたのでしょう。 サンスクリットは、ブッダの当時から日常を離れた文章語になっていたので、 大衆に直接語りかけることをよしとする仏教では最初は用いられませんでしたが、 仏典が他地域の言語に翻訳されていく過程で、 インドのいわば共通語としての性格をもつサンスクリットにも翻訳されたものと考えられます。 つまり、我々がいま目にするパーリ語やサンスクリットの仏典というのは、 経典の本来の形なのではなく、 かなり後の時代に翻訳されたものだというわけです。 このことはついつい忘れがちになるのでしっかり強調しておかねばなりません。
     そういう翻訳の際、散文はすんなり翻訳できるのですが、 詩は韻律上の問題もあってなかなかうまく翻訳できず、 標準的な文法語法からはみ出してしまうことが多々あります。 そのようなわけで仏教サンスクリットのいろいろな特徴は、 散文ではなく詩の部分に集中することになるのです。

  2. 仏教サンスクリットの学び方
     仏教サンスクリットについては昔から定番の参考書として、 Franklin Edgerton : Buddhist Hybrid Sanskrit Grammar and Dictionary, 2 vols.という本があります。 詳しくはこのリンクを見てください (当サイトでは参考書ではなく辞書の紹介のページに載せています)。 このうちの第一巻が仏教サンスクリットの文法をまとめています。 ですからこの本の第一巻をざっと通読し、 第二巻の辞書を頼りにしながら(もちろんモニエルなど普通のサンスクリットの辞書とを併用して)、実際の仏典にあたっていく、 さしあたりは同じ著者(エジャトン)によるリーダー、 F. Edgerton : Buddhist Hybrid Sanskrit Readerがあるのでそれを読んでいけばいいでしょう。
     実際にエジャトンの文法書を手にとってみればわかりますが、 この本は仏教サンスクリットが標準サンスクリットと異なる点を、 実例をあげながら列挙する形になっています。 たとえば
    • 8.18。で終わる名詞の男性単数主格にはがある。……
    • 8.19。時々このは韻律上になるはずのところにも現れる。……
    • 8.20。で終わる名詞の男性単数主格にはがある。……
    • 8.21。で終わる名詞の男性単数主格にはがある。……
    というふうに、 標準サンスクリットと異なる部分のみを実例を挙げながら箇条書きに説明していく形になっています。 だからで終わる名詞の男性単数主格の標準形である はどこにも説明されていません。 もちろん仏典でもになることが多いのですが、 標準サンスクリットで説明できるものについてはこの本は全然説明しないのです。
     ですから、いくら「オレは仏典にしか関心がない。 仏典を読むためにサンスクリットを勉強するんだ」という人であっても、 いきなりこの本で勉強することはできません。 まずは何か適当な参考書でサンスクリットの初等文法をマスターし、 標準サンスクリットでかかれた文のリーディングの実戦経験をいくらかつんでからでなければ、 何が書いてあるかさっぱりわからないということになると思います。
     エジャトンの文法書は200ページほどしかないのですが、 版形がA4なので片手で持つにはかなりしんどくなっています。 かなり小さい文字でずらずらっと、 上記のようにイレギュラーな形が列挙されています。 もっとも、目次がかなり充実していて、 文法事項によってひくことが可能なので、 そういう使い方をする分にはなかなか便利ですが、 最初から最後までじっくり通読にはかなりの困難を伴います。 ましてやずらずらっと列挙されたイレギュラーな形を全部暗記するなど、 とてもできるものではありません。
     ですから仏教サンスクリットの勉強の仕方は、 エジャトンの文法書を順繰りに読んでいくというやり方は適当ではありません。 まずは標準サンスクリットの知識だけで仏典にアタックし、 「おかしいな。ここは本来○○になるはずなのになんで××と書いてあるんだろう」 という疑問が生じたときに、 エジャトンの文法書の該当箇所を調べる、 というのがよい勉強の仕方です。

  3. 当コーナーの使い方
     ですから当コーナーも、順番に通読するというのではなく、 疑問が生じたときに参照してみるという形で活用してください。
     エジャトンの文法書をそのまま全部翻訳するとたいへん分量が多くなってしまうので、 実例は原則すべてカットし、 文法の要点だけを列挙することにしました。 それぞれの説明の末尾に[エX.XX]という形で、 「エジャトンの文法書のセクションX.XXを見よ」というふうに書いておいたので、 詳しくはエジャトンの文法書そのものを見るようにしてください。

  4. パーリ語も勉強しよう
     これはアドバイスですが、 仏典を読もうという人は、さしあたりパーリ語の仏典を読む必要がなくても、 できればパーリ語を勉強しておくといいと思います。 仏教サンスクリット特有の形には、 パーリ語ではそのように言う、という形がずいぶんあるので、 パーリ語をやっておくとカンがついてきます。
     標準サンスクリットばかりやっていると、 どうしても考え方が教条的になってしまい、 イレギュラーなものへの対応ができなくなってしまいます。 パーリ語にはさまざまなイレギュラーな形があるので、 イレギュラーなものに柔軟に対応することができるようになるでしょう。