悉曇字の本源と切り接ぎ


2. 悉曇字の本源と切り接ぎ

 悉曇を表記する記号を悉駄摩怛哩二合 ()といいます。 「悉曇字母」という意味です。 このうち母音を表す文字を摩多()(母字)と名づけ、 子音を表す文字を体文(? )と名づけます。
 摩多と体文とは時代や地域によって違いがあり、日本に伝えられた悉曇は、 上記の悉駄摩怛哩二合の略称であり、 西暦紀元4〜5世紀以後南インドから北インドにかけて通用した書体です。 これを梵字ともいいます。
 梵字の起源は最近の研究によれば北方セム族の文字から字形を借りて次第に改変されたものです。 しかし密教家の所伝によれば、梵字の起源は自然発生的なものであり人工的なものではなく、 言語同様に文字も天然のものであるとします。が、その天然の書体がどのようにして現世に現れてきたか、その時と場所については説の違いがあります。
 古来日本では、悉曇文字の起源は以下のような四種相承説として伝えられてきました。それは、梵天説、龍宮説、釈迦説、大日説です。
 第一の梵天説は、別名を魔醯首羅(大自在)といい、世界の創造のときに梵天が作ったものだという説です。 この説は仏教徒だけでなくバラモン教徒も千数百年前から唱えてきたものです。
 第二の龍宮説は、過去諸仏の経典がすべて龍宮に保存されており、 龍猛(龍樹)がそこから諸大乗経典をもってきて、その中に発見されたものだという説です。 この説は、 『悉曇字記』に「中天(悉曇)は龍宮の文を兼ねるものである」という記述があるのと、 龍樹伝に、彼が龍宮から経をとってきたという記述があるのとから、 安易に推察して両記事を短絡させたものにすぎないのでしょう。 史実からして龍宮というのがすでに実在のものではありませんので、 そこから得た経巻があるはずがありません。 『悉曇字記』に書いてある「龍宮の文」とは、 おそらくはナーガリー()をさしているのでしょう。 ナーガリーとは普通はナガラ( 城、町)の形容詞女性形ですが、 このナーガリーをナガラではなくナーガ( 龍)とラ( ある、いる) の合成語ナーガラ(龍のいる→龍宮)から来たと解釈し、 ナーガラの字=龍宮の文と解釈することができます。 近世のインド本土で用いられる書体をデーヴァナーガリー ( 神のナーガリー、尊いナーガリー)と呼ぶのは、 この書体の系統なのでしょう。 龍宮というのは、 単にナーガラという語がたまたま龍宮とも解釈できるためにそう呼んだのにすぎず、 龍宮という場所が実在していると言っているのではありません。 ナーガラというのはこの書体の原型の書体を使用していた種族の名前ではないでしょうか。 ここではそのように解釈しておきます。
 第三の釈迦説は般若の四十二字門、文殊問経の五十字門などという語があるといっても、 この説はほとんど成立しません。 諸経の中で釈尊所説としている四十二字門、五十字門というのは、 四十二の文字()ではなく、 四十二の言葉()だからです。 論者は「字」の意味を誤解しているのです。
 第四の大日説は大日経などにあるもので、金剛薩が結集し、 龍猛が鉄塔中から得たという説です。 これは教理上の解釈であって史実からすれば架空の説に過ぎません。
 以上、四種相承説のうち、第一と第四は史実でない教理上の伝説にすぎないものであり、 第二と第三は耳を貸す価値なきものです。
 しかし、 『悉曇字記』に書いてある、 「西暦紀元6世紀のころにインドの梵字に3系統あって、 南方は現在のいわゆる悉曇文字、 中部は悉曇とデーヴァナーガリーを併用し、 北部はこれらとはかなり違う字体(魯憙多迦文)を用いていた」 というのは、史実として信用することができます。 魯憙多迦文とはどのような書体であるかわかりませんが、 悉曇から発生して悉曇とかなり違う書体といえば、 おそらくは最近中央アジアで発見された古梵本、 たとえばN.F.Petrovskij氏の所蔵している法華経梵本断片の書体のたぐいでしょうか。
 悉曇文字は、インドでは、 ちょうどわが国の幼児がいろはを習うように、 6歳の児童が6ヶ月で学習を終えるものなので、 学習を容易にするために、 いろいろな語を表示するのに必要な字母結合の表を作り、 簡単なものから複雑なものへと学習させます。 その字母表を「悉曇章」といいます。 最も完備した表は十八章だてになっているので、 「悉曇十八章」といい、 おのおのの字母結合、つまりつづり字を「悉曇十八章建立」といいます。 結合している字母を(子音や母音の要素に)分解するのを「切る」といい、 二字以上を組み合わせるのを「接ぐ」といい、 このような分離と連合を「悉曇切り接ぎ」といいます。