1-1 音論への補講
文字と発音
前項の補講でも書いたように、
入門者はデーヴァナーガリーに手を出すべきではありません。
『実習梵語学』でも、文字は後のほうになってやっと出てきます。
しかしながら、デーヴァナーガリーがいったいどういう仕組みの文字なのかを知っておくことだけは、入門者にも必要だと思います。
なぜならば、ローマ字というのはあくまでデーヴァナーガリーの代用なので、
もとのデーヴァナーガリーの仕組み、特徴がそのまま生きているからです。
たとえば辞書や語彙集は、たとえローマ字で書かれていてもデーヴァナーガリーの順序になっていますし、
ローマ字の分かち書きの方式が入門書によって違うばかりか、
同一の書物内でも不統一があったりするのは、
もとのデーヴァナーガリーの特徴に起因するのです。
そこでここでは、デーヴァナーガリーの仕組みを簡単に説明します。
- デーヴァナーガリーの仕組み
この「デーヴァナーガリーの仕組み」は精読する必要はありません。
ナナメ読みで結構です。
もうすでに「デーヴァナーガリー」という語を不用意にさんざん使ってしまいました。
サンスクリットは歴史的にさまざまな文字で書かれていますが、
現在のインドでは、デーヴァナーガリーと呼ばれる文字で表記されるのが普通です。
この文字は次のような特徴を持っています。
- サンスクリット以外にも、ヒンディー語、マラーティー語、ネパール語など、
さまさまな言語の表記に用いられており、
現代インドで一番使われている文字である。
- 左から右に書く。
- 文字の上部にシロレーカーと呼ばれる横線があり、前後の文字とくっつく。
ヒンディー語などでは原則として単語ごとに分かち書きをするが、
シロレーカーは一単語ごとに後でまとめてひく。
- 音節文字であり、原則として[子音+母音]の組み合わせを表す。
子音のみを表したり子音の連続を表したりするのには特殊なやり方をする。
- サンスクリットの場合、語末が子音で終わるときは、次語頭の母音や子音とくっついて一文字化してしまい、分かち書きが行われない。
- 基本字母(子音+)
デーヴァナーガリーは音節文字であり、原則として[子音+母音]で1文字になります。
次に基本字母をかかげますが、すべてという音を含んでいることに注意してください。
1. |
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上の表のローマ字の左につけられた数字は、
辞書などでの文字順を示しています。
辞書の順序については下のほうで詳しく述べます。
- 基本字母(母音)
母音の表し方は大きく2つに分かれます。
まず、母音だけの音節は次のような独立した字母で表します。
- 基本字母(子音+)のを他の母音に変更するには
「子音+」のを他の母音に変更するときは、記号を付加します。
下はに記号をつけて、、…などを表すやり方です。
例外として、
()、
()、
()
などの形に注意してください。
は、WindowsのArial Unicode MSではとなりますが、
実際にはのように記されるのが普通です。
- 記号と数字
- ヴィサルガ……
の右側の:です。
母音のあとの気音を表わします。
- アヌスヴァーラ……
の上の点です。
鼻母音を表わします。
- アヌナーシカ……
の上の月形+点です。
これも鼻母音を表わしますが、めったに出てきません。
- アヴァグラハ……
という字です。
サンスクリットではある一定の条件で、語頭のが省略されるのですが、
その際にこれを書きます。ローマ字ではと書きます。
- 句読点……
(左から順に、読点、句点)です。
ただし散文の場合は実質的に、左が句点、右は段落全体の最後というところです。
詩の場合は、半詩節の区切りが左、一詩節の区切りが右になります。
たとえばシローカという形式の詩は、16音節×2という形式なので、
16音節で左、32音節で右の区切りがつくというわけです。
- 数字……
(左から順に0123456789)です。
- 結合子音字
このように、デーヴァナーガリーではすべての文字が母音をもった音節を表します。
子音のみを表したいときは、
のように文字の下にナナメ線(赤字部分)をつけます。
これをヴィラーマといいます。
では、2つ以上の子音が連続する場合、例えば
と書くには、ヴィラーマ記号を活用して
と書けばよさそうですが、
実際にはといった
独特の結合子音字を用います。
結合子音字の作り方は、概していえば、
- 縦棒のある文字の子音+別の子音……その縦棒を除いた形にしてその右に次の字をくっつけます。
たとえば、
と書く場合、
母音のないは、を使って、
のように左右をくっつけます。
- 縦棒のない文字の子音+別の子音……次の子音字を下に書きます。
(例)()
- ()+別の子音……
()のように、
次の子音のシロレーカーの上にカギ形を書きます。
-
別の子音+()……
()のように、
前の子音の左下にナナメ線を書きます。
-
()、
()、
()、
()、
()、
で始まる結合子音……
上記の規則で結合子音を作ってもいいのですが、
次に同系統(子音表の同じ横の行)の子音が来る結合子音の場合、
前の子音をアヌスヴァーラで書くという簡略記法があります。
たとえばは、
という書き方と、
という書き方とが共存しています。
この書き方は、わずらわしい結合子音を避ける簡略記法といえます。
- その他、例外形……
()、
()、
()
などいろいろ、注意を要すべき例外形があります。
出てきたらそのつど覚えましょう。
なお、はヒンディー語ではギャのように発音されますので、
サンスクリットでもそう発音されることが多いです。
おもな結合子音字
※ゴンダ文法p.4-6の表をWindows XPのArial Unicode MSフォントを使用して打ってみました。
ゴンダ文法と書体が異なったり、結合子音になっておらずヴィラーマを使用した形になっているものもあります。
- 分かち書き
単語末が母音、ヴィサルガ、アヌスヴァーラであるときに限り、
次の語との間を分かち書きします。
単語末が子音のときは、次の語とくっつきます。
すなわち、単語末が子音で次語頭が母音のときは、
上記3のような形で次語頭の母音はただの付加記号になってしまいますし、
単語末が子音で次語頭が子音のときは、上記5のような結合子音字になってしまいます。
※念のためいうと、単語末が母音で、次語頭も母音のときは、
たいていこの2つの母音が融合して1つの母音になってしまいます。
こういう場合はデーヴァナーガリーはむろんのこと、
たとえローマ字であっても分かち書きは行われません。
このような現象が起こらないときにはじめて、語と語の間は分かち書きされるのです。
また、サンスクリットでは複数の語が結合して複合語を作ることが多く、
時にかなり長大化することもありますが、
複合語の各成分の間は原則として何もつけません。
初等文法書、たとえばゴンダ文法のp.7の「読み方練習」には、
デーヴァナーガリーにも複合語の各成分間の区切りのハイフンがついていますが、
これは入門者への配慮なのでしょう。
普通はこういうものはつきません。
ローマ字の場合には、英語のようにハイフンを入れる流儀もあれば、
ドイツ語みたいに何も入れない流儀もあり、さまざまです。
- とりあえず文字について知っておくことは……
以上、やや長くなりましたが、デーヴァナーガリーの仕組みについて説明しました。
複雑な子音連続が起こるサンスクリットの表記には、
子音+母音を原則とする音節文字のデーヴァナーガリーは適しておらず、
特に、単語末が子音で終わるときは分かち書きが行われないという特徴は、
入門者にはまったく不親切です。
ローマ字とデーヴァナーガリーの間にはきれいな一対一対応があり、
デーヴァナーガリーは必ずローマ字になり、
ローマ字は(分かち書きの問題を除き)必ずもとのデーヴァナーガリーに戻りますから、
ローマ字は立派にデーヴァナーガリーの代用をしてくれます。
まずはローマ字でサンスクリットを勉強し、
基礎力を身につけたうえでデーヴァナーガリーを読めるようにすれば十分です。
ただ、たとえローマ字を用いるにせよ、次のことは頭の片隅にとどめておくべきでしょう。
- 辞書や語彙集の順序……次で書くようにデーヴァナーガリー順です。たとえローマ字であってもアルファベット順ではありません。
- はとはまったく違う文字……などの有気音はなどの無気音とはまったく違う文字です。
よってで始まる語を辞書などで調べるとき、のところを見ても無駄です。
- ローマ字の分かち書きにはゆれがある……
デーヴァナーガリーでは単語末が子音のときに分かち書きが行われませんが、ローマ字では通常分かち書きをしますので、デーヴァナーガリー→ローマ字への変換の際には、単語の境界を知っていないと分かち書きができません。
状況によっては、単語の境界ともとれるし、単に複合語の成分の境界でしかないともとれるところがあり、
こういうところではローマ字の分かち書きにゆれができる場合があります。
- 辞書・語彙集の順序
上記の母音基本字母、、、……、、
次に子音基本字母
、、……、という順番です。
各基本字母の中の順はさらに、がつくもの、がつくもの……、がつくもの、
となり、その次に、その字母で始まる結合子音字が、子音基本字母順に並びます。
くれぐれも、を調べるのにのあたり(の最初のあたり)を見たりしないでください。の最後のほうになります。
最初のうちはかなり面食らうと思いますが、しばらくするうち慣れてきます。
なお、ヴィサルガやアヌスヴァーラがついたものの扱いは、
各辞書により微妙に異なります。
とりあえず当サイトの流儀では、母音と子音の間に配列しています。
- 音声学用語はしっかり覚える
くどいですが、入門段階ではデーヴァナーガリーは読めなくてもかまわないので、
以上の長々とした話はナナメ読みすれば結構です。
重要なのはここからです。
この項(音論)の音声学用語は、次以降の「外連声」を理解するのにとても重要なので、
しっかり覚えてください。
デーヴァナーガリーの子音字母の配列は、
少なくとも……の行までは音声学的に非常に規則正しくなっています。
その下、以降が何か雑然としていますが、
ここから下は、ヨコのものをタテに並べ替えれば、やはり非常に規則性があります。
ではそのように並べ替えてみましょう。
次の表では、→のように、各字母に含まれている母音を省略します。
無声/有声 |
無声 |
無声 |
有声 |
有声 |
(有声) |
(有声) |
(無声) |
(有声) |
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無気 |
有気 |
無気 |
有気 |
鼻音 |
半母音 |
歯擦音 |
気音 |
喉音(軟口蓋音) |
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口蓋音(硬口蓋音) |
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反舌音(そり舌音) |
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歯音 |
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唇音 |
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この表を用いて、有気音といったらどの音とどの音なのか、
有声音といったらどの音とどの音なのかというのを、しっかり覚えてください。
他の外国語(英語でも可)を習得した経験のある人ならすべて常識的に納得いくと思いますが、
が有声音扱いになるのはちょっと不思議な感じがすると思うので注意してください。
この表は子音字のみですが、
母音はすべて有声音になります。
- グナ、ヴリッディについて
本編7.の表、弱音階−標準階(グナ)−長音階(ヴリッディ)というのは、
何をいっているのか、何が重要なのかがちっともわからないと思います。
しかしこの表は非常に重要であり、今後いろいろなところで引用されます。
とりあえず今のところは、
サンスクリットの母音にはこのようなグループわけが存在するのだということを頭の片隅にとどめておいて、
後にこれらの用語が出てきたときにもう一度ここを見返すようにしてください。
英語にも、come→came、man→menのように、
語形変化に際して母音が変化するという現象があるでしょう。
そのようなことがサンスクリットでは大々的におこり、
しかもそれがしっかり理論化されているというわけなのです。
- 発音練習について
「サンスクリットは古典語であり、会話をするわけではない。
だいたい昔の発音がどんなもんだったかなんてよくわかっていない。
だから、正確な発音など気にせず、ともかく読解練習をすればいい」
という考え方があります。
しかし、この考え方は間違っています。
「奈良時代の日本語の発音がどんなもんだったかなんてよくわかっていないんだから、
万葉集の和歌は音読など不要で、ともかく目で読んで読解すればよい」と思うでしょうか。
古典は、その当時どう発音していたかというのとは一応別個に、
現代のわれわれがどう音読すべきかという問題があるのであって、
この両者を混同してはいけません。
音読に関しては当サイトの雑感集
「勉強法−発音について」にいろいろ書いたので、
それも見てください。さしあたりは以下のことに注意しましょう。
- 英語などにひきずられて、をカ、をザみたいに読まないようにしましょう。
- アヌスヴァーラ()は日本語のンです。ムのように発音しないようにしましょう。
- アヌナーシカ()はめったに出てきませんが、これも日本語のンです。ムのように発音しないようにしましょう。
- ヴィサルガ()は息を露骨にハッキリと出します。
ならば「アハ」、
ならば「イヒ」、
ならば「ウフ」、
ならば「エヘ」、
ならば「オホ」のように、響きは前の母音の影響を受けますが、
特にハ、ヒ、フ、ヘ、ホのように露骨に母音を発音しているわけではなく、
息を強く出した結果がそのように聞こえるというだけです。
- 、は意図的に長母音で読むようにしましょう。
- 、はアイ、アウというよりアエ、アオであり、
口を大きく開けることに気をつければ、エ、オでかまいません。
- 、、は、
学問の現場ではリ、リー、リのようにイという母音を伴って発音されています。
これはベンガル地方の読み方の影響だといわれています
(イギリスがインドを植民地化していったはじまりはベンガル地方であり、
インド学の始まりもベンガル地方からだったというわけです)。
現代のヒンディー語話者はル、ルー、ルのように発音しています。
今後はそういう発音のほうが多くなるのかもしれません。
- は、当サイトでもカタカナで書くときにはヴと書いていますが
(このページでも、アヌスヴァーラ、デーヴァナーガリー、ヴリッディなど)、
実際にはwの発音だと思ってください。
だから本当は、
アヌスワーラ、デーワナーガリー、ウルッディ、というわけです。
- 実際の本のデーヴァナーガリーのくせ
ここからは中級以上の人の話です。
初等文法を終え、ローマ字表記のテキストのリーディングの経験を積むと、
いよいよデーヴァナーガリー表記のテキストの読解練習になると思います。
基本的には上でまとめたとおりなのですが、
現実に出版されている本のデーヴァナーガリーは、
なかなか教科書どおりではありません。
主な特徴をまとめておきます。
- 分かち書きはあてになりません。
まったく分かち書きをしないことも珍しくありません。
- 代用アヌスヴァーラはいっぱい出てきます。
、、、、などのように、
子音の前の同じ行の鼻音は、たいていになります。
- その逆に、アヌスヴァーラ+子音を、
鼻音+子音で書くこともあります。
をと書くという具合です。
- さらに、単独のやがと書かれることがあります。
特に文末ではそれが目立ちます。
- アヴァグラハ()は省略される場合があります。
- 逆に、
サンディによって母音が融合してとなるとき、
後の母音が本来であったときは(を表す記号の次にを1つ書く)、
後の母音が本来であったときは
(を表す記号の次にを2つ書く)と書かれることがあります。
- の次に子音が来る
(デーヴァナーガリーの形状に即していえば、
子音字の右肩にを表すカギ型がつく)
とき、この子音字が重複されることがあります。
たとえば、などが、などのように書かれるわけです。
また、有気音は→、のように、無気音+有気音という形にします。
インド人のは強烈なので、次の子音がダブっているように聞こえ、
またそう表記されるのでしょう。
- で終わる語の次に子音で始まる語が来るとき、
普通は結合子音になるはずですが、
わざと結合子音にせず、
の下にヴィラーマをつける場合がけっこうあります。
- 固有名詞などで語の境界を明示するために、
次とのサンディを意図的にしなかったり、
結合子音にせずヴィラーマを使ったりすることがあります。
このほか、昔のタイプライターで打ったものは、
結合子音字母が非常に少ないため、ヴィラーマを使っているものがあります。