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人はなぜサンスクリットを学ぶのか?

Since 2004/7/31 Last Updated 2006/7/23


     「人はなぜ」と問う以前にまず自分から。
     「なぜお前はサンスクリットなんか勉強してるのか?」……よく聞かれるんだけど、これが難しい。 なぜって、私自身がよくわからないから。 さしあたりは、「ひまつぶし」とか「老後の趣味のため」とか言ってごまかしている。 「老後の趣味のため」って、実年齢は43(2004年時点で)なんだけど、 サンスクリットのような難しい言語は、いまのうちから勉強しておかないと、 老人になってからでは勉強がつらい、というわけ。 これはちょっとは説得力がありそうだけど、いずれにせよどちらもあんまり理由になってない。
     しかし私は、こんなあやふやな動機だからこそ、逆に興味が持続しているような気がする。
     というのは、サンスクリットの勉強を始める日本人の多くの人の勉強動機は、サンスクリット本来の世界とは微妙にずれているような気がしてならないのだ。 だから、勉強動機がはっきりしている人ほど、 勉強を続けていくうち「こんなはずじゃなかった」という違和感を感じるようになるんじゃないだろうか。
     ずばり、多くの人の勉強動機は仏教である。 「お経を原典で読みたい」「真言の意味を知りたい」「梵字を書きたい」……。 しかし、サンスクリットの初等文法の教科書には仏典はほとんど出てこない。 ほとんどどころか、ゴンダ文法なんか(練習題の各文の出典がわからないけど、たぶん)ゼロである。 辻文法もたぶんゼロだろう。 行けども行けどもお目当ての仏典は出てこないのに、勉強は無味乾燥でやたら難しい、……これじゃ、挫折する人も多かろう。
     初等文法で仏典が出てこない理由は語学的には非常にハッキリしている。 仏典に用いられているサンスクリットは仏教混淆サンスクリット(Buddhist Hybrid Sanskrit)、要するに「なまった言葉」である。 なまった言葉を勉強するためにはまず規範的な言葉を勉強しなければならない。 だから初等文法には出てこないのだ。
     しかしもっと根本的なこととして、仏教はインドでは少数派なのだが、それを日本人がなかなか理解できないということがあるように思う。 もちろん、中学や高校の地理や歴史の授業では、インドでは仏教がすたれてしまったことを習っているはずなのだが、実感できないのである。 それだけ日本では、葬式仏教と陰口をたたかれながらも、仏教が身近な存在だということなのだろう。 インドの文化というとついつい仏教と思ってしまうし、インド哲学というと仏教哲学だと思ってしまう。
     そしてこういう誤解は、明治以来日本人がしてきた誤解のようだ。 東大印哲とはもともと仏教学科にほかならず、 ハッキリ「仏教」といえない事情があって「インド哲学」と称したそうである(この由来を記したサイトが閉鎖されてしまったのでソースを明らかにできないのが残念)。 こういう話に象徴されるように、日本人の通念の中のインドは現実のインドとズレており、そのズレはいまだに続いているというところだろうか。
     もちろん、このようなズレを、自分の世界を広げる方向に生かして、 仏教を勉強するつもりが気がついたらもっと広くインド哲学をとらえるようになったというふうになればいいのだが、 そうならないとつらいものがある。 仏教を理解するためのバックグラウンドとしてもインド哲学の理解は欠かせないと思うのだが、 やはりインド哲学は仏教とは異なるところがあり、 いまだに仏教者からは外道呼ばわりされることも多いらしい。 関心を広くもつようにしないと、サンスクリットの勉強はつらいものがあるのではないか。
     また、悉曇関係からサンスクリットに興味を持つ人の中には、 初等文法の間はローマ字ばかりだというので失望して勉強をやめてしまうという人が少なからずいる。 勉強法−文字についてにも書いたように、 私もサンスクリットはまずはローマ字で勉強するものだと思っているので、 あまりに文字に思い入れのある人は困りものである。 こういう点でも、心は広く持つべきである。
     とはいえ、いまのサンスクリットの初等文法のテキストは、 ゴンダ文法にしろなんにしろ、あまりに仏典が少なすぎ、 文字が少なすぎである。 複線的なカリキュラムで、そういう周辺の要素をいろい取り入れていかないと、 多くの日本人の学習意欲を持続させることは難しい。 やっぱり「冬のソナタではじめる韓国語」みたいに、好きなものから入ると語学の勉強は続くものである。 その点で、当サイトでよみがえらせた(→文法概説 よみがえれ『実習梵語学』)荻原雲来の『実習梵語学』は、初等文法の基本カリキュラムはそのままに、仏典や梵字を適度にとりいれていて、とてもバランスがよい。 名著たるゆえんである。
     かくいう私は、実はインドのごった煮的なところが好きである。 もともとが多様な要素の混在するところであるが、イスラム教の浸透以後さらにそうなっている。 そういうところが好きである。
     だから実は、インドの言語の中でもウルドゥー語に一番関心がある。 ウルドゥー語をやるとサンスクリットの知識に加えて、ペルシア語やアラビア語も必要になる。 こりゃ一生かかっても極められまい。 まさに老後の趣味にふさわしい。


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