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梵語俗説(5)・黒田龍之助の思いつき放言

「言語は音だ」を理解できない「言語」学者の語る「思いつき」の数々

Since 2009/4/3 Last Updated



  1. 黒田先生は思いつきでモノをいう
     今回は「梵語」に関する俗説ではないのだが、ほかに適当なコーナーもないのでとりあえずここに載せておく。以下の批判の核心には古典語に関する話も出てくるから梵語にも無関係ではあるまい。

     黒田龍之助という先生がいる。本業はロシア語の先生であるが、スラブ系諸言語を広く研究対象としている。Wikipediaの彼のページにある著作一覧によれば、初期の著作はウクライナ語やベラルーシ語などの本だったようだ。ロシア語のほうは他に先生がいっぱいいるのでまずは他のスラブ語関係の本でデビューしたということなのだろう。
     そして、言語の参考書だけでなく、『羊皮紙に眠る文字たち スラヴ言語文化入門』(現代書館.1998)『外国語の水曜日 学習法としての言語学入門』(現代書館.2000)といった、言語学関係のエッセーをものしはじめる。
     上記のWikipediaのページにはないが、2001-2002年にはNHKテレビのロシア語講座の講師をしている。NHK語学講座はラジオに比べてテレビのほうは最近かなり軟派な傾向があり、テレビ講座の先生をやることですっかり売れっ子になったのだろう。以後はロシア語の本も出すばかりか、『はじめての言語学』(講談社現代新書. 2004)など、スラブ語に限定しない一般の言語学を素人にわかりやすく紹介するエッセーを多数書きはじめる。すっかり売れっ子になった今は著述多数、東工大、明治大と経てきた大学の先生稼業も辞め、今はフリーランスの語学講師ということらしい。もっとも、「大学の先生を辞めたから言語学者も廃業したんだ。学者じゃないから好き勝手なことを言っていい」というわけではないので、以下、黒田先生を言語学者と認めた上で批判させていただく。
     スラブ語畑から言語学一般へというと、故・千野栄一を彷彿とさせるが、千野先生と比べるとどうも黒田先生の書くものは、良くいえば「軽妙な語り口」なのだが、バックグラウンドが軽薄なものが多い。まあ世の中には一人くらい、学問の内容を素人にわかりやすく紹介する人がいなければならないのだろうし、その点では黒田先生の語り口は適切なのだろうが、どうも内容に、単なる思いつきでしかないものが多い気がする。千野先生の著作のように、一見軽妙なようで実は背景に深い学識があるというレベルにはほど遠い。
     しかも、上記のようにいろいろ手を広げ、多数の著述をものすと、ますます書くモノの内容が薄まってしまうようで、最近出した『世界の言語入門』(講談社現代新書.2008)は、「入門」という言葉に釣られて世界の諸言語を学問的に概説しているのかと思って買ってみると、なんと、全く対象言語を知らないのに他の概説書をひいて思いつきの印象だけを語るというあきれた内容である。そういう本だというのは「はじめに」にちゃんと書いてはいるのだが、世の中、通販で書名だけで買う人もいるのだから、それなら「世界の言語・やじ馬傍観記」みたいな、体を表す名を冠してほしいところである。それにしても、売れっ子になるとこんな本でも出してもらえるのねぇ。
     私は黒田先生の書くものは嫌いではないし、黒田先生のような役割をする先生が必要だというのも理解できるのだが、それでも黒田先生のものす思いつきの中には、聞き捨てならない困ったものがあるので、このページでハッキリと批判しておこう。



  2. 「言語は音だ」を理解できない「言語」学者
     あれこれ書いてもしょうがないのでこのページで批判するポイントを一つにしぼる。
     黒田先生は言う。
    言語学では次のような大原則を立てている。

    言語は音が基本である。

    文字のない言語はあるが、音のない言語はない。いまでは話し手のいなくなってしまった古典語だって、昔は話す人がいた。だから、言語の基本は音のほうだと考えるのである。(はじめての言語学 p.40)
     その言や良し。さすがは言語学者らしく「言語は音だ」と高らかにうたいあげている。
     もちろんこのことは全く正しいのだが、実は黒田先生、ご自身ではこのことを本気で理解していないのである。黒田先生の書くものの多くは思いつきに過ぎないだけに、逆に黒田先生のホンネが見事に現れるのだ。



  3. 古典語と人工語には音声教材は不要!?
     「言語は音だ」を黒田先生が本気で理解していない証拠はいろいろあるが、決定的にハッキリ現れているのは次の記述である。
    また発音の学習のためにCDなりテープなりがついていることが望ましいのは当然だ(ただし古典語や人工語の場合は別だと思う。それでも最近、古典ギリシア語やエスペラント語の教科書にもテープがついているから、わたしとは考え方の違う人もいるようだ)。(外国語の水曜日 p.240)
     つまり、古典ギリシア語のような古典語、エスペラント語のような人工語の場合は音声教材は不要だというのだ。「あってもいいけどなくてもかまわない」と言っているのではないし、「古典語の場合は音声教材よりも練習問題に力を入れるべきだから音声教材があるかどうかは評価の基準にならない」と言っているわけでもない。「不要」と言い切っているのである。
     古典語や人工語にどうして音声教材が不要なのか、理由を書いていないのだが、おそらくは、古典語や人工語は音のない文字だけの言語であるから音声教材はナンセンス、ということなのだろうし、一応音はあるかもしれないが会話をするわけではないのだから音声教材はいらない、ということなのだろう。



  4. エスペラントで会話する人
     しかしこの考えは完全に誤っている。「わたしとは考え方の違う人もいるようだ」などという「見解の相違」ですませられない。ハッキリいう。「黒田先生の考え方のほうが間違い」である。
     まずはエスペラントのほうから行く。私自身はエスペランチストではないし、エスペラント運動にはまるっきり無関心なのだが、世の中確かに、エスペラントで会話する人はいるのである。
     私の知り合いに韓国・ソウルで生活している人がいる。あるとき「ルーマニアの女友達がソウルに来ているから一緒に会わないか」と言って、携帯電話で彼女と連絡を取り始めたのだ。なんだかイタリア語のような響きの、今まで聞いたことのない言葉で会話しているのを聞いて、「それってルーマニア語ですか?」と聞くと、彼は「ルーマニア語なんていう難しい言葉は僕は知らないよ」という。友人とその女友達はエスペランチストであり、エスペラントで会話をしていたのだ。彼女は韓国語も日本語も知らないし、友人はルーマニア語を知らない。英語は二人ともカタコト程度すらおぼつかない。エスペラントは二人が意志を疎通させるための唯一の言語なのだ。
    念のため言う。サンスクリットサイトの同業者(というより先輩)である「大歓喜」の近藤さんはエスペランチストらしいが、ここでいう友人とは彼のことではない。私は彼とはまったく面識がない。「エスペランチストの友人」などと書くと近藤さんのことだと早合点する愚か者が必ず現れそうで、近藤さんに迷惑をかけるといけないので、あえて言う。
     だからエスペラントの教科書にだって、音声教材はあればあったに越したことはないのである。
     こういう人たちが世界にはまだまだいるのだということが、愚かな黒田先生にはまったく想像がつかないのだろう。そういえば黒田先生の思いつき放言集『世界の言語入門』には、エスペラントが(少なくとも項目としては)出てこない。エスペラントは黒田先生にとっては言語にすら値しないのだろう。



  5. 古典語に音声教材は不要か?
     さて古典ギリシア語のほうだ。もっとも古典ギリシア語の場合、音読に二つの方式がある。一つは、原則として綴りどおりに発音する方法で、古典時代にはそう発音されていただろうというものだ。エラスムスが考え出したのでギリシアではエラスムス方式と呼ぶらしい。もう一つは現代ギリシア語流の発音。実は現代ギリシア語では綴りと発音とが(規則的に対応するのだが)かなり違うのだ。このどちらの流儀で発音するかという問題があるのだが、いまこの問題はおいておく。
     どちらで発音するにせよ、古典ギリシア語の勉強のうえで音読が非常に大事だというのは、黒田先生以外のほとんどすべての先生の一致した見解である。
     いや、なんと黒田先生自身が、あの放言集『世界の言語入門』のギリシア語の項(p.81)でそう書いているのだ。学生時代に新約聖書のギリシア語の授業で、クリスマス前日まで授業をするというまじめな先生に対抗して、学生5人が「前日なんだからパーティーをやりましょう」と言ったら、じゃ研究室に集まれということになり、当日研究室に行ったら、ルカ伝のイエス誕生のシーンのコピーを渡され、一人ずつ音読をさせられたという話だ。そして
    おかげでずいぶん力がついた。今でも覚えているフレーズはフートス・エスティーン・ホ・ロゴス・トゥー・テウー「これは神の言葉である」。これをアテネでいったら、ドン引きだろう。
    とある。さすがは思いつき先生、本によって書いてることが違うというのが思いつきの思いつきたるゆえんである。ちゃんと音読の重要性をわかってるんじゃないの! それでもこの先生の音読は生半可だったようで、このフレーズ、「エスティン」というところは短母音だからエスティンである。もっと音読の練習をしたまえ。いや、「どうせ古典語だから音なんかどうでもいいや」と思ったからこそ音読練習に身が入らず、こういうポカを書くはめになったのだろう。
     そんなわけで、黒田先生も認めているように、古典語の勉強にも音読は欠かせない。新約聖書の全文のギリシア語朗読がパソコンで聞ける時代になった。日本コンピュータ聖書研究会のサイトから故・織田昭先生の「新約聖書原典全巻朗読」がダウンロード購入できる。これは現代式朗読。織田先生は著書『新約聖書ギリシャ語小辞典』中で、新約時代の発音はほとんど現代に近くなっているということで現代式を勧めておられるが、古典式にしろ現代式にしろ音読が大事だと強く主張している。また日本聖書協会から「聴いて読めるギリシア語聖書」が販売されており、こちらの朗読は古典式。私のパートナーであるばべるばいぶるの真理子の勧めでいくつか聞いてみたが、マタイ伝第5章の山上の垂訓は、ギリシア語で聞いていると「幸いだ」にあたるマカリオイ(現代式だとマカリイ)のリフレインがとても美しく、やっぱり聖書は耳で聞いてこそだと痛感した。聖書に限らず古典文学はみんなそうだろう。黙読するものではなく、口で話し、耳で聞くものなのである。
     このほか、変化表だって耳で聞いて口で唱えて覚えたほうが覚えやすいという人もいるだろう。だからサンスクリットでも、平岡昇修先生の『初心者のためのサンスクリット文法』では、ちゃんとCDをつけており、変化表を耳で聞きながら覚えることができる。古典語だから会話は不要としても、だからといって音声教材まで不要ということにはならないのだ。



  6. この先生は文字フェチか?
     放言集『世界の言語入門』のタイ語のところで、「文字好きの私にとっては」というくだりがあるとおり、この先生は文字フェチの傾向がある。だからこそ「言語は音だ」ということを本気で理解できないのであろう。
     一方インド人は伝統的に文字に執着していない。文字は昔から各種あるが、苛酷な自然環境では記録媒体がすぐ失われてしまうせいなのか、昔から音読による記憶が重視されており、主要な古典はみんな記憶によって伝承されてきた。そしてそれを時々の必要に応じて文字に書きとどめるので、同じものが多様な文字で書かれることになる。パーリ語の仏典が各国で異なる文字で書かれているのもそのせいであるし、サンスクリットだってそうなのである。2008年に東京国立博物館でスリランカ展が開催されていたが、シンハラ文字で書かれたサンスクリットの文章が展示されていた。サンスクリットはデーヴァナーガリーで書かれるとは限らないのである。
     しかし不幸にして文字フェチの黒田先生は、インドの言語を勉強したことがない(のだろう)せいで、こういうインドの事情は全く理解できないようだ。そういえば放言集『世界の言語入門』にはパーリ語が入っていないし、サンスクリットのところには案の定こんな妄言が書かれている。
    サンスクリット語はナーガリー文字で書き表す。考えてみれば、インド・ヨーロッパ比較言語学を本格的に学ぶためには、いろいろな文字を知る必要がある。ときどきラテン文字に転写して説明したサンスクリット語文法があって、そういうのを眺めているとやっぱり他のインド・ヨーロッパ諸語に似ていると感じる。でも本当は、ナーガリー文字で読むべきであり、こういう無精なことではダメなんだよなあ。
    無精なというのを我が身について言っているのであれば勝手に放置しておくが、ラテン文字に転写して説明した文法でサンスクリットを身につけた我々に言っているのであれば容赦しない。無精なのではなく、言葉を身につける一番よい方法としてラテン文字で覚えているのだ。だいたい、学問の場ではラテン文字で書かれることが多いのだからラテン文字だって読めなきゃいけないし、上述のようにシンハラ文字で書かれたりもするのだから、どんな文字で書かれても対応できるよう、言葉を覚えなきゃダメなのだ。「言語は音」なんだからさ、言語学者さん。
     なお、インド・ヨーロッパ比較言語学では楔形文字で書かれたヒッタイト語が最近話題の重要な言語であるが、これを学ぶにはまずラテン文字で言葉を覚えてから楔形文字にかかったほうがよいとのことである。でないととても歯が立たない。
     また、『世界の言語入門』の「ウルドゥー語」のところには、案の定「ウルドゥー語とヒンディー語でもっとも大きな違いはその文字である」とあり、以前見たインド映画に「記憶を失ったインドの青年がパキスタンの村で助けられて、村人と仲良くなって、村の有力者の娘と結婚寸前までいったが、実は宿敵であるヒンドゥー教徒だった」という話があり、ウルドゥー語とヒンディー語が実質同じ言葉だからこういう話が成り立つのだろうといった上で、一番最後に、「(二つの言語の違いが文字だということは)映画の舞台になった村には、どこにも文字が書いてなかった、そういう設定としか考えられない」とおバカなことを書いている。
     ウルドゥー語やヒンディー語をやってる人が往々にして「ウルドゥー語とヒンディー語の違いは文字」という言い方をしてしまうのにも責任の一端があるのだが、「言語は音」だという言語学者さんなのだから当然こういう説明のウソを見破ってもらいたいところである。これでは文字を知らない人は、ウルドゥー語もヒンディー語もしゃべれないではないか。もちろん両者の違いは語彙である。そして、共通語彙で話している限りにおいては、区別はつかないという関係である。黒田先生のご専門領域でいえば、セルビア語とクロアチア語の分離の瞬間を目の当たりにしたわけなのだから、放言集とはいえもう少しましなコメントを書いてもらいたいところである。




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