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梵語俗説(3)・二宮陸雄の古事記梵語説

Since 2005/2/15 Last Updated 2005/2/15


 この項は気が重い。
 が、書かねばなるまい。
 二宮陸雄『古事記の真実・神代編の梵語解』(愛育社・ISBN4-7500-0247-X。7800円+税つまり8100円。2004.2.1)という本がある。 題名のとおり、古事記の前半に出てくるいろいろな固有名詞などを、 サンスクリットで強引に解釈している本である。 たとえば、イザナギ、イザナミのイザナが(供犠をして祭壇を築く。p.175)などという具合である。 いや、古事記特有の固有名詞だけではない。 「奈良」が(宇宙に浸透し広がっている永遠の精気。p.31。 以下「まほろば」までこのページの例)、 「大和」が(シヴァ神またはヴィシュヌ神の名)という具合に、 広く人名、地名におよぶ。 いや、固有名詞だけではない。 「まほろば」は(大きな子宮)だというふうに一般名詞にまで、 はては古事記によく出てくる接続詞「故(カレ)」はだとか(p.371)、 文法的な語彙にまで及んでいる。 そうか。日本語の起源はサンスクリットだったんだ。
 この本は8190円とかなりお高い本だが、 なにしろ索引を含めて589ページにわたって延々とこの手の解釈が続くのである。 索引までつけるというご苦労ぶりである。 見ていて目がくらくらしてくるので実例をあげるのはこのくらいにしたい。

 こういう説については、個々の例を一つ一つ検討するのはやめたほうがいい。 そんなことをしたら著者の術中にはまるだけである。 頭から無視して取り合わないに限る。 当サイトを読んでくれている多くの健全な読者ならこの説のトンデモぶりは説明する必要はあるまい。 さしあたりは、こう言っておこう。
「身一つにして面四つあり。面ごとに名あり」を、 身=(地に固定する)、一つ=(このように)、 面(オモ)=(祈りの言葉)、 四つ=(供犠)、 ごとに=(太陽神・子孫)、 名あり=(結合する)で、 まとめると「このようにして地中に基礎を築き、 聖なる言葉を唱えて一つに接合された、三天神の名を唱えて太陽神の子孫を接合した」 と解釈する(p.249)くらいだったら、 日本語としてそのまま「体は1つで4つの顔があり、顔ごとに名がついている」と解釈したほうがわかりやすくないですか?
と。あるいはまた、
古事記がサンスクリット由来の語彙に満ち溢れているというのなら、 古事記の漢字表記の読み方そのものの再検討が必要なのに (たとえば「神倭伊波礼毘古」を「カムヤマトイハレビコ」(神武天皇のこと)と読むこの読み方自体の再検討が必要なのに)、 国語学や中国語の音韻学上の検討を一切抜きで、 「カム」=(ヴィシュヌ)……などとしちゃっていいの?
と言っておこう。 批判はこれで十分である。

 トンデモ説は徹底的に無視するに限るのだが、 困ったことには、二宮氏には、 『サンスクリット語の構文と語法 印欧語比較シンタックス』のような役に立つサンスクリット参考書があり、 私もよく利用しているし、人にも勧めてるってことだ。 とてもいい参考書だと思っていたのに、 その著者がトンデモ本を出してしまったとなると、 ついつい読む気力がなえてしまうし、人にも勧めにくくなるなあ。 そりゃ、エジソンも晩年は霊界ラジオなんていうトンデモ研究をしたし、 シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイルも、 当時のイギリスの妖精騒ぎにまきこまれ、 少女たちがイタズラで作った妖精写真を本物と信じ込んでしまったという大ポカをかましたが、 だからといってエジソンやコナン・ドイルの業績全体が否定されはしない。 同様に、トンデモ本を出したからといって二宮氏の他の業績を否定しなくてもいいのだろう。 が、別の分野ならともかく、サンスクリットでトンデモをやらかしたのでは、 二宮氏のサンスクリット関連業績がどうしてもくすんでしまうではないか。
 二宮氏は本業は医者なのだが、小説家でもあり(まるで森鴎外だ)、 『医者と侍』という医学歴史小説を書いているし、 それから黒樹五郎というペンネームで『日蝕海峡』『群青列島』『流氷の光る日』という小説も書いており、『日蝕海峡』はけっこう売れたらしい。 だとすればこういう古事記梵語説は、小説仕立てで出してほしかった。 そうしたら楽しく読めたし、 二宮氏の他の業績を汚さずにすんだのに。

 さて、冒頭に書いたように、私は非常に重苦しい気分でこのページを書いている。 というのは、いま述べたように二宮氏は本業は医者であり、 副業としてサンスクリット(や印欧語)研究をしているということ。 私もやはり本業を別にもちながら、趣味でサンスクリットのサイトを開設しているわけで、 そういう私にとっては指針となる「偉大なる先達」だったのだ。 そういう二宮氏がこういうトンデモ本を出してしまったので、 大いにショックを受けているわけである。 やはり、アマチュアでコツコツと研究をしているっていうのは危ういのだろうか。 私も将来こういうトンデモにはまってしまったりするのだろうか、と。

 今どきまさか、 サンスクリットは梵天が創設した天上界の言葉だという神話を信じている人はいないだろうが、 大乗仏典を記述した言語のうちの一つであることから、 お釈迦様が使った聖なる言語という神話が生まれやすいだろうし、 「完成させられた」という名前どおりに文法が精密であることから、 他の言語に比べて高級な言語だという思い込みも生まれやすいだろう。 サンスクリットはトンデモな神話・伝説を生む磁場に満ち溢れた言語だというわけだ。 サンスクリットを学ぶわれわれは、心すべきことだろう。
 また、古事記や万葉集に用いられたいわゆる万葉仮名も、 パズルのような読みにくい表記のため、 異なる読み方ができるのではないかという思いを生んでしまう、 トンデモ磁場に満ち溢れた世界なのだろう。 そういえば、万葉集を朝鮮語など他の言語で読み解く試みというのは、 間欠泉のように現れては消え、消えては現れる、トンデモ学説系譜を形成している。
 古事記梵語説というのは、まさにこの、二大トンデモ磁場の交差するところに生成されたあだ花というわけなのだろう。 伝統説を覆すのは確かにロマンに満ち溢れた試みだが、 昔から、真実というのは最も平凡なものと決まっているものだ。


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