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漢文について(1)

Since 2006/9/30 Last Updated 2006/10/4



  1. なんで漢文の話なんか?
     当サイトはインドの言語を学ぶためのサイトであるからして漢文すなわち文言(文語中国語)は扱う対象ではない。
     しかし日本人がサンスクリットを勉強する動機のかなり多くは、仏教への関心からである。とすると単にサンスクリット仏典のみならず漢訳仏典、さらには中国や日本で漢文で書かれた仏教書を読まざるを得ないはめに陥ることが多い。
     日本では一応中学・高校の間に漢文を勉強することになっているので「私は漢文はちっとも読めません」と逃げるのもはばかられるし、漢文は馴染み深い漢字で書かれていることもあるので特別な訓練なしにもなんとか読めそうだ。しかしやはり外国語の古典語、そうそうひとすじなわで読めるものではない。
     後に述べるように今の日本では、他人が訓点をつけた文章を読むための参考書は(高校生用の学習参考書を中心に)いっぱいあるが、その先の、自分で白文に訓点をつけていく練習ができる本がなかなかない。そこで、どうやったらそういう漢文が読めるようになるのか、悩んでいる人も多いに違いない。
     またなかには、「漢文は本来中国語なんだから、訓読などという変則的な方法をやらず、上から下に音読して理解したほうがいいんじゃないか。いっそ訓読などやめれば読めるようになるんではないか」という間違った見解に陥る人も出てくるかもしれない。
     実は私は長らく高校生たちに漢文を教えてきたということもあるので、ここらで漢文に関して思うところをまとめておこうと思う。



  2. 訓読は悪か? 音読すれば万事解決するのか?
     まず上記の後半に出てきた「訓読の是非」の議論から始めよう。
     日本では長らく漢文を音読することをせず、訓読という非常に変則的な方法で読んできた。これに対して、主に中国語畑の人による「言語は音読してこそ意味がとれるものであり、昔と違って今ではナマの中国語の音に触れる機会はいくらもあるのだから、訓読などはやめて中国人同様に上から下にそのまま音読して中国語として理解するようにすべし」という批判がたえず存在してきた。
     この批判に対しては、高校の教育の場では「大学入試センター試験には訓読の形で漢文が出題されるのだから訓読の方法を勉強せよ」と反論すればよいし、日本文学、日本史の研究の場では「そうはいっても昔の日本人は訓読の形で読み、訓読されることを前提に『〜被下度候(くだされたくそうろう)』のような中国人からみると怪しげな文を書いてきたのだから、訓読の方法を勉強しないと昔の日本人の書いたものが読めなくなるよ」と反論すればよい。
     が、そういうことでもなければ「中国人が中国語で書いたものを中国語として発音せずに解釈するのはおかしい」という批判は至極まっとうであり、反論の余地はほとんどない正論である。私も決して否定しない。
     しかし私は、音読をすればすべて解決するという無邪気な楽観論には立たない。
     非常に奇妙なことだと思うのだが、音読による読解を主張する人は、音読せよということしか言わない。まるで、音読をしさえすればたちどころに意味がとれると主張しているかのように。
     しかし問題はその先である。音読したあとにどういう辞書などを使ってどのような作業をすればいいのか、そういう「音読による読解の方法論」を明らかにしていない。最近は中国語の参考書が掃いて捨てるほどあるのに、漢文つまり文語中国語を音読によって読解する練習のできる適切な参考書は(ずいぶん探したのだが)存在しない。漢詩などを音読したCDなどはあるが、読解のための参考書は存在しないのである。



  3. 漢文は濃縮果汁、解読は濃縮果汁還元
     参考書の話はあとでまた述べるとして、では「音読による読解」の実際の作業はどのようなものなのだろうか。
     漢文は現代中国語とはかなり異なるので、漢文を音読しても現代の中国人は理解できない。そこでまずは漢文を現代中国語に翻訳する。「そりゃそうだろう。『源氏物語』や『徒然草』だって、音読しても現代の日本人は理解できない。だからまず現代日本語に翻訳する。同じことじゃないか」と思うかもしれない。だが、漢文→現代中国語の場合はもっと深刻で根本的な問題が存在するのである。それを理解してもらうために、まずは漢文→現代中国語の実例を見てみよう。この例は『漢文から中国語への道』(田中秀、燈影舎)から借用した、『戦国策』の「虎の威を借る狐」の話の冒頭である。
    (漢文)虎求百獣而食之、得狐。狐曰:
    (現代中国語)老虎找各種野獣做食物、有一天找到一隻狐狸。狐狸説:
     これを見ると、まず「曰→説」のように全く語彙が異なる部分がある。また「而」にあたるものが存在しなかったり、「食之→做食物」のように文法的構造が異なっている部分がある。さらに訳文の「有一天找到一隻」の部分は原文には存在しない補足事項である。
     この程度のことであれば世界のどんな言語の文語→口語訳にも見られるところである。たとえば日本語でも「うたてし→いやだ」のような語彙の違いはあるし、「え〜ず→〜できない」のような文法の違いもある。語句を補って訳さねばならないことはきわめて頻繁にある。
     しかし漢文→現代中国語の場合は、もう一つ重要な違いがある。例をみると「虎→老虎」「獣→野獣」「狐→狐狸」のように、漢文で一字の語が現代中国語では二字の語になっている部分がいろいろある。
     実は漢文→現代中国語訳では、これが一番多いのである。よく、「中国語は単音節語であり、一語が原則として一字すなわち一音節である」といわれる。これは漢文では正しいのだが、現代中国語ではそうではない。「虎」は一字では単語としては使えず、必ず「老虎」「猛虎」などのように他の字と組み合わせなければならない。つまり「虎」というのは語を組み立てるためのパーツにすぎず、他のパーツと組み合わせて初めて現実の発話中で語として使えるものなのである。同様に「女→女人」「梅→梅花」「国→国家」…など、現代中国語ではそのままでは語にならない字のほうがはるかに多い。実は現代中国語はかなり複音節語的なのである。
     これは「昔の中国語は単音節語だったのだが、だんだん複音節語化したのだ」とも考えられるし、実際に従来はそう考えられてきた。しかしどうもそうではないらしい。吉川幸次郎は『漢文の話』の中で、もともとからこのような差異があったのではないかと言っている(上篇四、五章)。言うところを私なりにかみくだいていうと、もともとから中国語は口語レベルでは文字に現れる以上にいっぱいしゃべっているものなのだが、字画の多い漢字でそれを全部書くのは不便だということ、またそもそも表記法が確立されていなかったので、より本質的な部分だけを書いたというのである。
     中国語の音は非常に単調で音節の種類が少ない。英語ではa、anなどから始まり、strengths(これでも1音節!) などといった複雑な音節まで多種多様の音節があり、いったい音節の種類がいくらあるのか想像もつかない(数えた人もいない)。が、現代北京語では声調の違いを考慮しても音節数は1164しかない。古代の中国語はもっと複雑な音体系だったのかもしれないが、それでもたかがしれたものである。もし本当に一語=一字=一音節ならば、たかだか2〜3000程度の語しか存在できないことになり、同音異義語を大量生産しなければならなくなる。必然的に一語は多音節にならざるを得ないのだ。従来は、「古代は一語=一字だったが時代が下るにしたがって多音節語が増加した」と考えられてきたのだが、いくら古代でも2〜3000語で足りるような生活をしていたとは思えない。実は古代も多音節語が多かったのだが、表記法が確立されておらずに単に書かなかったにすぎないのだ。
     「表記法が確立されていなかった」ということについて補足しよう。上の例の「老虎」の「老」には「年をとった」という意味はまったくない。単に口語のlaoに相当する音を持つ字をあてているにすぎないのである。表音文字であればしゃべるとおりにlaoと書けばすむのであるが、表意文字である漢字ではそのような融通がきかず、表記法が確立されるまでは文字として表記できないのである。それでもまだ現代中国語は、文字化されてきた歴史が長いのでまだ表記法が確立されているのであるが、他の方言ではそうではない。最近は広東語や上海語などの参考書が多いので見てもらえばわかるが、漢字表記がただの□になっている部分がやたら多い。表記法が確立されていないため、文字として書けない語がやたらとあるのだ。実は北京語だって同様で、本当の北京の俗語は文字として書けないものがいっぱいある(純粋の北京語俗語を多く採録している岩波中国語辞典を見ればわかる)。このように中国語の口語では文字として書けない部分がいろいろあるのだが、昔の中国人はそういう部分を全く書かなかったのである。つまり「lao虎」のlaoが書けないときに、そこを書かず、より本質的なパーツである「虎」のところだけを書いたというわけである。
     中国語は決して単音節語ではないが、一面ではやはり単音節語性がある(字=語としては使えなくてもパーツとしての意味はある)ので、このような省略記法が可能だったのである。
     それから漢字のような表意文字で一番苦手なのが、文法的機能を持つ言葉である。視覚化できないので文字として書けないわけだ。たとえば「汝」はもともと川の名前であるが、音が二人称代名詞の語に似ていたので、二人称代名詞としても使うようになった。このように文法的機能を持つ言葉には仮借すなわち当て字が多い。するとこれも上記のlao虎→老虎のように、表記法が確立されるまではなかなか文字として現れてこないということになる。漢文では助字すなわち文法的な文字が省略されることが多いが、なんのことはない、文字として書きにくかったので書かれなかったというわけなのである。
     日本語の古文は、たぶん昔はその通りしゃべっていたのだろうが、漢文は当初から、しゃべる通りではない、口語とは乖離した性質をもった、書写を前提とした人工的言語であった。とすれば漢文は、音読したからといってそれだけで意味がとれるようなものではないのである。
     もちろん書写を前提としても中国人は昔からそれを音読してきたのであり、それはそれで音読のリズムというものがある。またそのような音読を通してさまざまな文語的表現が口語にも音声レベルで入ってきている。だが漢文の音読のリズムは口語の音読のリズムとは異なるものであり、であるがゆえに現代中国人が「漢文を中国語として」理解するときは、漢文の音読のリズムで理解しているのではなく、口語に置き換えて理解しているのである。
     漢文は口語の種々雑多な要素を取り除き、最小限必要な要素だけ書くという形でできあがった人工言語である。逆に漢文を口語に置き換えて解釈するには、適宜言葉を補っていくという形になる。これはちょうど濃縮果汁還元ジュース、つまりジュースを造るときに、搾汁したものをいったん濃縮したペースト状にして冷凍保存し、その後に「濃縮還元」つまり水を加えて搾汁時の状態に戻すようなものである。



  4. 中国人でも解釈の揺れている例
     音読をしたからといって理解ができるわけではないという証拠に、中国人の間でも解釈の分かれている文がいろいろあるのである。たとえば次の文がそうだ。
    孟武伯問孝。子曰、「父母唯其疾之憂」(為政第二)
    (孟武伯は孝行とは何かと質問した。孔子は答えた「……………………」)
    1. (三国魏・何晏『論語集解』)父母にはただ自分(=子)の病気の心配だけをさせるのが親孝行である
      つまり、病気にかかって親を心配させるのだけは避けられないことで仕方がないが、それ以外では子供は親に心配をかけさせてはならない、というわけである。全体の主語は「子」であり、「其」も「子」。これにしたがって訓読するなら「父母をして唯だ其の疾のみこれを憂へしめよ」ということになろうか。
    2. (南宋・朱熹『四書集注』)父母はただ自分(=子)の病気の心配をしているものだ(から病気にかからないことが親孝行である)
      つまり、親はわが子が病気にかからないかといつも心配しているので、子は親の気持ちを理解して病気にかからないのが親孝行である、というわけである。全体の主語は「父母」であり、「其」は「子」。これにしたがって訓読するなら「父母は唯だ其の疾をこれ憂ふ」ということになろうか。
    3. (清・劉宝楠『論語正義』)父母については、ただひたすら(父母が)病気にかからないかどうかを(子が)心配することが親孝行である
      訳のとおり、主語は「子」、「其」は「父母」。「其」が子でなく父母となる点で1.や2.とは大転換しているが、論語のこの文を引用した『論衡』や『淮南子・高誘註』でそう解釈していることをふまえた、いかにも清朝の考証学者らしい実証的な解釈。訓読については2.と同じでもいいが、冒頭の「父母は」は主語ではなく話題であり、主語はあくまで「子」であることを明示するために、全体を命令文として「父母は唯だ其の疾をこれ憂へよ」とするほうがいい。
     このように解釈が異なってしまった原因は、「濃縮還元」の際にいろいろな可能性が生まれてしまうということである。濃縮還元のときにどのような語を補うかは人によってまちまちだし、中国語には格変化や人称変化などがないばかりか、品詞の転換も自由自在。サンスクリットのように偏執狂的に語形変化をする言語とはある意味対極に位置する言語である。そこでこのようにいろいろな解釈の違いが生まれてしまうわけである。



  5. 句読点の問題
     それから漢文では伝統的に句読点を打たないので、適宜区切って読まねばならない。これも濃縮還元の一つといえるかもしれない。
     これも「音読をすれば漢文のリズムが体得できるので句読点を打つ位置はわかるようになる」という主張をする人がいる。しかしそうともいえない。音読をしていても句読点の打ち方を間違えることはざらにある。
     サンスクリットのサイトらしく仏典の例をあげると、『般若心経』の終わりのほうに「真実不虚故、説般若波羅蜜多咒」という部分がある。ここを多くの参考書では「真実不虚、故説般若波羅蜜多咒」のように区切っている。中国語の自然なリズムでは「故」は文の冒頭に来ることが多いので、ついついこのように区切ってしまうのだろう。しかしサンスクリットの原文を見れば(当サイトのリーディング参照)、「真実・不虚故・説・般若波羅蜜多・咒」のような区切りになるのである。翻訳文ということで通常の中国語とは異なるリズムになってしまったためにこのようなことが起こっているわけだが、このことをもってしても、「音読すれば万事解決」するわけでないということが明らかであろう。



  6. 音読・訓読併用論
     上述のように、漢文を音読によって中国語として理解する場合、単に音読しただけではダメで、適切な濃縮果汁還元ができなければならない。
     が、これは一種の作文能力である。漢文の文字一字一字について、現代中国語でその字が単独で語として使えるかどうかという知識(「虎→老虎」のように絶対に二字にならないと語として使えないとは限らない。字のなかにはたとえば「書」のようにいまでも一字で語として使えるものもある)、省略された語句を場面から中国語で補うことのできる語学力、こういうことはよほど中国語に熟達した人でなければできることではない。中国人でもなかなかできないこういう作業を、日本人でできる人がはたしてどれだけいることだろう。
     だから「漢文を中国語として理解する」といっても、ほとんどの凡人は、せいぜい一字一字の意味を中国語辞典でひいていくというのにとどまっている。
     しかしこれは結局、漢和辞典で一字一字をひいていくのと大差ない。結局は音読という手順が一つ増えただけで、従来ながらの訓読めいた読解をしているにすぎないのである。昔の人のようにおおっぴらな形ではなく、音読しているふりをして実は無意識的に訓読しているのだから、無意識なぶんだけいい加減な形になっており、かえって始末におえない。
     あまりよい例ではないが、「読書」というのは「読む・書を」という動詞・目的語構造かもしれないが、ひょっとしたら「読む(ための)→書」のように上が下を修飾しているのかもしれない。現に「読本」はそういう構造の語である。われわれは文脈などを頼りにしながら、ABというシーケンスを「BをAする」なのか「AなるB」なのか考えながら読むわけである。このあたり、サンスクリットやパーリ語の複雑怪奇な複合語の読解に似ているが、インド人は註釈で複合語を他の表現で言い換えたりしながら複合語の構造を詳しく分析するのに、中国人はあまりそういうことをしないようだ。音読をしている中国人はあまりそういう違いを感じていないのかもしれない。とすると音読のみではこの違いがあやふやになりがちである。この点訓読では、前者の場合には返り点を用いるし、書き下し文を作る過程で決定を強いられるのだから、音読よりも精密な読解ができることだってあるのである。
     テキストは当該言語で解釈するだけでなく外国語に翻訳することで意味が明快になることだってある。『源氏物語』だって英訳を読んではじめてよくわかるようになったと正宗白鳥が感嘆したのは有名な話である(*)。訓点のついた和刻本の漢籍を中国人が「こちらのほうがよくわかる」と言って買っていくこともあるそうだ(**)。
    (*)正宗白鳥『英訳「源氏物語」』(S8.9「改造」に掲載された「文芸時評」。新潮社・正宗白鳥全集第8巻)
    (**)原田種成『私の漢文講義』(1995 大修館書店 p.22)
     そもそも漢文は日本語と語順が違う以上、宿命的に訓読をせざるを得ないところがある。実はわれわれは英文すら訓読をしようとしているのかもしれない。簡単な会話の文章こそそのままの語順で理解しているかもしれないが、複雑な構造の文では「こっちにかかる、あっちにかかる」というふうに返り点めいたことをやっている。また、文脈を無視して「often=しばしば」「a few=二、三の」と訳すなど、固定化された訳をしてすませている(a fewは実際には五〜六ぐらいになることが多いそうである)。古田島洋介は『漢文訓読と英文解釈 〈英文訓読〉宿命論』(川本皓嗣/井上健・編『翻訳の方法』(東京大学出版会)所収)で、明治の日本人が英文を漢文訓読風に読解しようとした例をあげつつ、実は現代でも私たちは知らず知らずのうちに英文を訓読しているのであり、「原文→解釈→訳文という段階論を認めたうえで、私は解釈作業としての英文訓読を擁護したい」と結論づけている。つまり、最終的な訳文を作るための中間段階の作業として、訓読というのは意味のある作業だというわけである。
     そのようなわけで、訓読を変則的な方法として排斥するのではなく、音読と訓読を適宜併用しながら、「意味をとるために役に立つ方法なら何でもやる」というふうにしていくのがいいのではないだろうか。



  7. もっと実践的な学習書を
     それにしても今、漢文を学ぶのに役にたつ学習書は何なのだろうか。
     サンスクリットであれば、ゴンダ文法やペリー文法のような豊富な練習問題のついた入門書で基礎をしっかりつけ、ランマンのリーダーのような註の豊富な、そして現実の出版物の形であるデーヴァナーガリーで書かれた読解教材で読解力を高めることができる。
     しかし漢文の場合、中国語で音読するにせよ従来ながらに訓読するにせよ、はたしてこのような実践的な教材があるのだろうか。訓読方式の入門書は、高校生用の参考書はむろんのこと大学教養の教科書も、他人が訓点をつけた文章を読解するレベルにとどまっており、訓点もなく句読点もない現実の文章を読解するレベルにいたっていない。一方、中国で出されている「文言」(古文つまりわれわれのいう漢文)の参考書は、もちろん音読方式なのだが、当然すべて中国語で書かれているので日本人には使いにくいうえ、やはり句読点のない現実の文章に句読点をつけながら読んでいくような実践的な練習をするようにはなっていない。
     白文を読むには文の区切りや語の区切りがわからねばならないのだが、後述のように、実は固有名詞に関する情報がとっかかりになることが多い。とすると文学畑なのか思想畑なのか史学畑なのか、対象が日本なのか中国なのかによって読む本の種類が異なり、他の分野での経験が役に立たないことも多い。だから従来は「当たってくだけろ」で、それぞれの畑でいきなり白文にアタックし、見よう見まねで読解力をつけていく方法がとられてきた。ひょっとしたら最終的にはそういう方法しかないのかもしれない。が、それにしても、高校の漢文と現実の漢文の間の段階を埋めていく参考書が、もっとほしい気がする。



  8. で、参考書は? 勉強法は?
     嘆いてばかりもいられないので、現状で「高校漢文以上、現実の漢文への入門」になるような参考書・辞書と勉強法を、私なりにまとめてみた。


    1. まずは調べもののできる「事典」を
       まっさきに必要なのは実は文法書や辞書ではない。研究分野に即した調べものができる事典的性質をもった本である。仏典なら仏教事典や仏教人名事典の類である。
       昔の私の失敗談をいうと、「斯作丞相」を「斯(ここ)に丞相と作(な)り」などと読んで大恥をかいたことがある。この場合は「斯」とは秦の宰相であった李斯のことであった。
       漢文では「固有名詞が大文字で始まる」ことがないばかりか「どこまでが固有名詞か」も不明である。だから漢文の読解には固有名詞がとっかかりになることが多いし、逆にいえば、固有名詞がわからないと読解のしようがないのである。
       現代の通訳だって(どんな言語に限らず)、仕事の前にはその分野に関する下調べをしっかりやる。映画監督のインタビューなら、その映画監督の作品はもちろん他の有名な作品や主要な俳優の名などをしっかり頭にたたきこんでからでないと、いざそういう名前が監督の口から出ても、それを語として聞き取ることすらできないのである。
       そんなわけで研究分野に関する調べもののできる本は必須。これは分野によって異なるので各自でよいものをそろえるしかない。



    2. 文法書
       漢文の場合文法的知識がものをいうことが少ないので、文法書は適当なものがあればいい。文法的な字も辞書でひいてしまえばすんでしまうことが多いし、また漢和辞典の付録に句法一覧がある場合は、それですんでしまうだろう。
       どうしても文法書が必要なら、ヘンにいろいろ詳しいよりもパッとひけるもののほうがいいので、高校生用の句法がずらっと並んだもののほうがいいし、後述する『漢文入門』は必ずしも句法だけをまとめた部分はないが、巻末の助字索引を活用すれば、文法書が不要になるだろう。なお、『漢文入門』の末尾にさまざまな文法書を紹介した部分があるが、ものすごく高価だったり入手不能だったりするので、文法の研究をしたり日本の漢文研究・学習史をやるのでない限り不要。



    3. 辞書
       大きければいいとは限らない。『大漢和辞典』などはむしろ上記の「調べもののできる事典」に類するものであり、一般的には役に立つが分野によってはまったく役に立たない場合もある。
       中国語辞典も漢和辞典も、親字の説明の下にその字で始まる熟語がずらっと載っている。が、固有名詞や専門術語などの調べもの以外ではそういう部分をあてにせず、一字一字分解して親字部分の説明のみを見る覚悟で引くことである。このためにはできるだけハンディな「字典」(単漢字の説明を主体としたもの)がよい。
       それから、同じ漢字を使っていながら中国と日本で意味が異なるものがけっこうある。「手紙」(トイレットペーパー)、「新聞」(ニュース)、「汽車」(自動車)のような現代語はおろか、「勉強」(力を尽くす、無理やり行う)、「書院」(役所名、教育機関名)などのように昔からの語でもそういうのはいろいろあるし、「漸」(だんだん。「ようやく」と読むが「やっとのことで」という意味はない)など単漢字レベルでもそういうものがある。このためには漢和辞典は避けたほうがよく(もっとも日本漢文を読むなら別であるが)、できれば中国で出た中国語の字典がよい。

       中国語ができるのであれば大陸の標準字典である『新華字典』でもかまわない。これなら1000円もしないで入手可能。中国語があやうい人(私も含む)には、光生館から『新華字典日本語版』(ISBN:4332800206。3150円)も出ているし、小学館や講談社などから出ている各種「中日辞典」でもかまわない。現代中国語の辞典でも親字部分の説明を読めば漢文も読めるのである。
       ただしこれらの辞書は簡体字を使っているので漢文を読むにはいちいち頭の中で字体変更作業が必要になる。単に字体が違うだけならまだいいのだが、簡体字化に際して異なる字を一つにまとめてしまった部分が多く、これがけっこう混乱のもとになる。それから大陸や日本で出た中国語辞典は中国語のローマ字の順になっており、しかも音がいっぱいある字はそれぞれの部分にわけて載っていることが多く、引くのが二度手間、三度手間になることが多いばかりか、「この読みのときの意味はこれ、あの読みのときの意味はあれ」という相互の関連がわかりにくいのが難点である。
       この点では台湾の字典がよいかもしれない。台湾の字典なら旧字体を使っているし、配列は部首&画数順なので多音字もひとところにまとまる。ただし台湾書籍を扱っている本屋は少ないので入手は面倒。いっそ台湾に飛んで買ってくるか、でなければインターネット通販をするのがいいかもしれない。『國語日報學生字典』など、300元つまり1000円程度で入手可能である。
       中国語があやうければ、上記『新華字典日本語版』にあたるような、旧字体を用いた中中字典の翻訳として、『支那文を読む為の漢字典』(研文出版。ISBN:4876360103。3056円)がある。上海商務印書館の陸爾奎、方毅『學生字典』(1915)を文語体で翻訳したものだが、昭和15(1940)年に出て以来根強い人気を持ち、いまだに現役である。

       漢和辞典の中では従来は角川の『角川 新字源』(角川書店。ISBN:4040108043。2520円)が定評があり、根強い人気をもってきた。まぁこれでもいいであろうが、私の不満点は、句法が巻末にまとめて載っているのはいいのだが、逆に本文のほうからは「句法一覧を見よ」という形でカットされているので、二度手間になることがけっこうあること。
       最近出た漢和辞典では『全訳 漢辞海』(三省堂。ISBN:4385140464。3045円)がいい。品詞別を明示したり、日本のみの用法を[日本語用法]という形でしっかり分けているので、漢和辞典にありがちな誤解が最小におさえられるであろう。



    4. 勉強法、読解法
       白文を読むための適当な入門書はないので、小川環樹・西田太一郎『漢文入門』(岩波全書(岩波書店)。ISBN:4000201018。2940円)で代用する。
       第一部の「語法概説」は白文−訓点つき−書き下し文の3種併記になっているので、白文部分に書き下し文をたよりに訓点をつけてみたり、中国語ができるなら北京音で音読したりする(中国語音読派の人も、句読点はもちろん返り点くらいはつける練習をしたほうがよい。返り点は文法構造を簡単に示すことができるけっこう便利な道具である)。修行だと思って白文部分はノートに書き写したほうがいいかもしれない。なお、書き下し文は最終的な翻訳ではないので、どのやり方をするにせよ最後は必ず口語訳すること。訳はついていないが、解説を読めば訳の点検は十分可能である。訳という作業は前後の文脈に依存するところが大きいが、第一部「語法概説」のような超短文では前後の文脈がわからないので、訳は、注に出てくる文法事項には注意しながら書き下し文を口語訳する程度でよく、辞書はひく必要はない。
       第二部の「短文篇」も同様。今度は原文と書き下し文のみ。ただし原文には返り点と句読点がついてしまっているので、まずはノートに返り点も句読点も除いて書き写し、第一部同様の読解練習をする。「短文篇」とはあるが、第一部とは違って前後の文脈がとれる程度に長い文なので、慣れれば句読点や返り点をつけたりする作業は最初に自分でやってみて、それから書き下し文をたよりに点検するのがよい。第一部同様に訳はついていないが、かならず口語訳し、解説を熟読しながら訳の点検をする。この段階では一字一字辞書をひく訓練をしたほうがよい。
       なお、第二部「短文篇」の注には要所要所に語法をまとめた部分があるので、そこの例文も第一部同様に書き写して練習するとよい。この場合は第一部同様、訳は辞書をひかなくていいと思う。
       第三部以後は必要ないが、ここまでだけでもかなりの作業量になるので、読解力が身につくことうけあいである。

       仏教漢文に即したものとしては、金岡照光『仏教漢文の読み方』(春秋社。ISBN:4393101529。1890円)が評判がよかったが、現在出版社品切れのようで入手不能。山喜房や東陽堂でも入手不能であった(2006年9月現在)。
       類書に伊藤丈『仏教漢文入門』(大蔵出版。ISBN:4804305300。3045円)があり、法華経の譬喩品と観世音菩薩普門品をネタに、仏教漢文独特の魏晋南北朝期の語法を徹底して学べるようになっている。この手の文を読みたい人は、上記『漢文入門』を適宜端折って(第二部を半分程度でやめるなどして)こちらにシフトするのもよいかもしれない。偈以外の部分はまるきりの(句読点すらない)白文、偈も区切っているだけの白文であり、それに書き下し文がついて、語句・語法がついている。だから『漢文入門』第二部同様の作業をすることができる。なお、この『仏教漢文入門』も最初に語法概説部分があるが、いきなりこちらをやるのではなく、最初は『漢文入門』をやるほうがいいと思う。




    5. 漢文について(2)に続く



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